マチノヨハク

空き家を活用して新しい価値をつくる

空き家活用に大事なのは「義の言葉」と「生活の欲求」を結びつけることにある

「義の言葉」だけでは人はなかなか動けない

空き家の活用だったり社会的課題の解決だったり、こういったテーマを語るときはとかく、意識高く、大上段で、俯瞰的な切り口になりがちです。空き家が人口減少や高齢化により空き家が増加している、地域にとって、街にとって問題だから活用や管理、代執行による強制撤去が必要だ、という流れです。しかし、実際問題として通勤や通学途中に老朽化した空き家の前を通らなくてはいけなくて、その老朽空き家のトタン屋根が落っこちてきそうとか外壁が崩落しそうとか、そういった実害があるから空き家所有者に連絡するとか役所に相談するといった具体的なアクションにつながります。いくら空き家が問題だと訴えても、日々の生活や仕事に忙しい人たちにとっては限りある可処分時間や肉体的な労力、注意や関心を注ぐのは難しいと思います。つまり、大上段な視点から発せられた「義の言葉」だけでは人はなかなか動けない。

「義の言葉」を「生活の欲求」と結びつける

賃貸物件の大家のリアリティ、個人住宅の所有者のリアリティ、しかもそれぞれ空き家の状態だったり権利関係など様々な個別的な事情があるわけで、それぞれの生活と地続き出ない限り、空き家の活用や管理、解体といった具体的アクションは生まれません。つまり日常の生活の中で必要なコトやモノ、ヒトなどの欲求があるかどうかがポイントかなと考えます。

プロダクト(モノ)やサービスが人を動かす

いくら「義の言葉」を届けても響かないわけで、「生活の欲求」に合った魅力的なプロダクト(モノ)や便利なサービスが人を動かし、空き家を動かすのかなと。そういう意味で国や自治体というよりも民間企業や個人の力が存在感を増しています。

宇野 これって冒頭の議論につながっていく話で、いまは言葉よりもモノとかスペックのほうが射程が長いと思うんですよ。ICBMの射程距離って世界共通なわけじゃないですか(笑)、というのは冗談ですが、世界を変えたければインターネットで供給過剰になった言葉を放つよりもモノやサービスをマーケットに流したほうが早くて遠くまで届く。
 だけど戦後の左翼知識人の伝統とそこにまつわる自意識の問題なんて東京西部ローカルのものでしかなくて、射程も短い。モノやスペックというオタク的な観点から抽象的な言葉をもう一度作り直すことによって、「生活の欲求」と「義の欲求」をつなげることも十分可能になると思うんです。

【特別対談】國分功一郎×宇野常寛「哲学の先生と民主主義の話をしよう」中編(PLANETSアーカイブス):Daily PLANETS:PLANETSチャンネル(PLANETS/第二次惑星開発委員会) - ニコニコチャンネル:エンタメ

 

(参考記事)

ch.nicovideo.jp