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1929年建設の三鷹跨線人道橋が撤去へ

三鷹市にある1929年建設の跨線橋が老朽化のため閉鎖され、撤去工事が始まっています(2025年8月末日までの予定)。この日は事前申込した方限定の渡り納めイベントで、多くの老若男女が訪れていました。

太宰治がお気に入りだった跨線橋:2023年12月16日撮影

太宰治がお気に入りだった跨線橋:2023年12月16日撮影

老朽化、維持管理費用、代替通路

錆びた鉄格子や金網が昭和の雰囲気を感じさせてくれる三鷹の跨線橋(正式名称は三鷹跨線人道橋)が、ついに撤去を迎えることになりました。JR東日本と三鷹市との間で検討が重ねられましたが、建設から90年以上が経ち老朽化していること、維持管理費用が高額であること、南北の往来については跨線橋の250m東にある地下道が代替になることなどを理由に、撤去という結論に至りました。

跨線橋の存廃を巡っては、JRと市の間で三年前から水面下のやりとりが続けられてきた。JRは、六九年に橋の約二百五十メートル東に完成した「堀合地下道」が橋の代替になるため、住民の往来問題は解消済みと主張。昨春には、維持コスト負担に悩むJRが橋の無償譲渡を市に提案。市は今年一月、「譲渡の受け入れは困難」と返答していた。
太宰も愛した跨線橋よグッド・バイ 三鷹の「撮り鉄」スポット JR東、解体・撤去方針決定:東京新聞 TOKYO Web

三鷹駅と武蔵境駅の間、三鷹駅から西に約400m

三鷹駅と武蔵境駅の間、三鷹駅から西に約400m

太宰治ゆかりの場所

三鷹市で晩年を過ごした太宰治は生前、友人や編集者たちを案内して何度も通ったとされています。太宰治が通った飲食店などはもう残っておらず、跨線橋は当時のまま残された最後のゆかりの場所でした。

昭和20年代に撮影された写真には橋の上でたたずむ姿や、さっそうと階段をおりる姿が収められています。市内には20年ほど前まで太宰が通った飲食店や酒店が複数ありましたが、いずれも今は残っておらず、当時のまま残された最後のゆかりの場所でした。

東京・三鷹市 太宰治ゆかりの跨線橋 渡り納めの1週間は 94年の歴史に幕 | NHK

跨線橋の上から武蔵境駅方向を望む:2020年8月撮影

跨線橋の上から武蔵境駅方向を望む:2020年8月撮影

街の財産を引き継ぐ

利便性を考えれば、自転車も通行できる近くの地下道を通るのが早く移動できますが、戦前から存在する跨線橋に登り、富士山も見ることができる景色や行き交う電車を眺めながらゆっくり渡るのも心地良かったです。

老朽化が進んでいますが、味がある構造物です:2023年12月16日撮影

老朽化が進んでいますが、味がある構造物です:2023年12月16日撮影

三鷹市としても現状のままでの存続を模索してきたようですが、耐震補強やメンテナンスに多額の費用がかかりますし、改修により文化的価値が損なわれる可能性も高いです。また、防災の観点からも安全第一であるため、撤去はやむを得ません。

街の財産として引き継がれます:2023年12月16日撮影

街の財産として引き継がれます:2023年12月16日撮影

ただ、太宰治をはじめ多くの人に愛された跨線橋は街の財産であり、様々な方法で次世代に引き継ぐことが重要です。三鷹市ではJR東日本と連携して、映像や画像として記憶と記録を残す取組を行っていくとしています。

なお、こ線橋は三鷹ゆかりの文学者で世界的に有名な太宰治が好んだ場所として文化的価値が高く、市民に人気のある施設であることから、今後はJR東日本と連携し、こ線橋の一部を譲り受けて保存や映像・画像等での記録など、記憶と記録を残す取り組みを行っていきます。
三鷹市 |三鷹こ線人道橋の今後の取り扱いについて

古い跨線橋と電車に青空が映えます:2023年12月16日撮影

古い跨線橋と電車に青空が映えます:2023年12月16日撮影

記憶と記録を残す取組の動向について注目していきたいです。

バス停の名前も今後変わるのでしょうか…:2023年12月16日撮影

バス停の名前も今後変わるのでしょうか…:2023年12月16日撮影